0系新幹線電車の思い出(2)
昭和51年は私が産まれた年でもあり、0系の初期車の置き換えが始まった年でもある。この節では昭和51年から、JR発足までの11年間を語ろうと思う。0系にとってはほとんど変化が無く、ひたすら置き換えられていった11年間であったが、私にとっては一番0系に乗っていた時代でもあった。
編成表の1行目は号車番号、2行目は形式(下付数字は区分番台の100の位。例えば262は26形200番台。)である。3行目、「G車」はグリーン車、「ビ」はビュフェ、「自」は自由席、「指」は指定席の略である。号車番号右の「禁」は禁煙車である(一部座席禁煙車を含む)。
昭和51年
5月19日、私が産まれている。9月27日、小窓車1000番台が登場。0系始まって以来で、もっとも大きなモデルチェンジである。小窓になった理由は、なんとガラスの費用の問題。乗客にとっては大窓の方が景色がよく見えて嬉しいのであるが、すでに赤字に陥っていた国鉄は、乗客よりお金が優先であった。1000番台になると同時にビュフェ車として37形が登場している。ビュフェの定員は10名になり、室内の構成も「軽食堂」から「売店」の雰囲気が近いものに変わった。また車椅子利用者向けに、入口ドア、デッキ客室間ドアの幅が広げられ、東京側2列はC席が無く、車椅子固定用金具が取り付けられた構造となった。
なお、編成はこれまで、「ひかり」編成がH編成、こだま編成がK編成と呼ばれていたが、このとき登場した16両全車1000番台の編成はN編成と呼ばれた。また1000番台先頭車で中間に0番台を含む編成はNH編成と称された。平成10年まで続くNH編成は、まさにこの編成の生き残りである。なお、N編成は後にも先にも、この年に増備されたN97、N98、N99の3編成しかない。27形、36形の1000番台が3両しか作られなかったため、全車1000番台の編成が3編成以上作れなかったためだ。
また、この年から開業時の車両の置き換えが開始されている。この時代は老朽化した0系を0系で置き換えていたわけである。非常に珍しい例であり、0系の設計がいかにしっかりしていたかが分かる。51年10月21日、0系に最初の廃車が出た。
8月20日より、「こだま」の16号車が禁煙車となった。これが現在の禁煙の流れの火蓋を切った形になる。
この年の年末帰省で、私は初めて新幹線に乗ったらしい。当時はまだ転換クロスの銀色シートで、ご満悦な私の写真が残っている。
「ひかり」(N編成)
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昭和53年
2月〜3月にかけて0系トップナンバーの編成が廃車された。しかし21形、16形、35形、22形のトップナンバーは、幸運にも大阪交通博物館(現、交通科学博物館)に保存されることになった。これら4両は3月28日と30日付けで廃車されている。ちなみにこの4両のうち、35−1だけは、1次車でなく2次車(つまり先行落成編成ではない)で、組み込まれていた編成も他3両がH1編成であるのに対し、これだけはH2編成であった。現在では22−1はシネマカーとして改装され、35−1が往年の姿をとどめて公開されている。また21−1、16−1は室内非公開である。
なお、4両などという短編成は博物館の中だけの話と思っていたが、0系末期の平成9年3月19日、営業路線上にも4両編成が登場したのは驚いた。
なおこの年で開業時の車両の置き換えは終了し、「こだま」グリーン車1両化の時の編成へと置き換えが進められた。
交通科学博物館保存編成
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昭和54年
この年の5月より、ビュフェ車が37形1500番台に変更された。ビュフェ部の定員が35形と同じ14人に戻り、座席が1列減った。
0系の編成自体は変更は無いが、今後につながる大きな試みが2つなされた。
ひとつは、簡易リクライニングシート試験の始まりである。これまで0系普通車の座席は転換クロスの銀色シートであった。このころの特急列車の座席としては、転換クロス・回転クロスが当たり前で、リクライニングシートはグリーン車の特権であった。しかしここに来て、簡易リクライニングシートが登場した。それはそれで歓迎できるが、簡易リクライニングシートは構造上転換出来ない。回転させることは出来るが、3列席はシートピッチの関係上、回転させるだけのスペースはない。つまり簡易リクライニングシートは向きが決まってしまうのである。この年、H18編成を使って試験が行われた。1号車は中央で向かい合わせになる集団見合い形、2号車は逆の集団離反形をとった。結果的には2000番台の登場の際には集団離反形が採用されるのだが、シートの向きが進行方向に出来ないというのが果たして特別急行列車としてふさわしい設備なのか、私は疑問に感じている。6月7日、ひかり63号から使用開始された。
もうひとつは食堂車の「マウント富士」工事の開始である。36形食堂車は在来線の食堂車とは違い、山側に通り抜けのための通路を設け、通り抜けだけの客が食堂を通らない形にした。在来線の食堂車では、食事をしている真ん中を通り抜け客が抜ける構造であったから食事の気分を害されることもあったので、確かに賢明な設計である。しかしその際、通路と食堂の間の仕切は、食事をしているところを覗かれないよう、窓が設けられなかったため、食堂車で流れゆく風景を見ながら食事をしようとしても、山側の座席の人は風景が見られない、また日本の風景として名高い富士山が見えないという欠点が出来てしまった。これを改善するのが「マウント富士」工事、つまり山側通路との仕切に窓を設ける工事である。この結果、食堂から富士山が見えるようになった。
昭和55年
特筆すべきことは、10月より「ひかり」編成の転換クロスシートが簡易リクライニングシートに交換され始めたことであろう。
10月1日より、「ひかり」の1号車が禁煙車となり、「こだま」の禁煙車も合わせて1号車となった。これに伴い、自由席も東京方から新大阪方へ変更された。
この年いっぱいで1000番台の増備は終わり、翌年からシートピッチの改善された2000番台が登場することになる。
「ひかり」(H編成、NH編成、N編成)
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「こだま」(K編成)
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昭和56年
12月3日より、シートピッチが改善された2000番台が登場した。1000番台と同じ小窓であるが、シートピッチが広くなっており、それぞれの形式で座席が1列減った。窓の数も各1つづつ減っている。また車両の中程下部にあった非常口は2000番台より無くなった。なお15形・27形・35形・36形の2000番台は作られなかった。また37形は1500台をベースにした2500台となった。
この年からであるかは確認が取れていないが、「こだま」(K編成)のビュフェが順次9号車に組み替えられていった。この結果、「ひかり」「こだま」いずれも、9号車がビュフェ、12号車がグリーン車となり、非常に分かりやすくなった。個人的には16両の編成としては一番美しかった時代と思っている。
そろそろ私も幼稚園に入り、記憶も残っている頃になるはずだが、13号車ビュフェの記憶は全くない。このころの私と言えば、新幹線に乗ると端から端まで歩いて回るのが常だった。
「こだま」(K編成)
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昭和58年
この年小学生になった私は、初めて一人で新幹線に乗っている。新大阪駅まで母と妹が見送りに来てくれて「こだま」で静岡まで行った。母が近くの席の人に「この子一人なんでよろしくお願いします。」とか言っていたが、その人は名古屋で降りてしまった。まあ、行き先も聞かずに頼んだ母も母だが、「こだま」でそんな遠くまで行く人は少ないだろうと今では思う。で、当の私だが、車中で寝るわ、車掌室に行くわ、とても初めての一人旅とは思えない。静岡では祖父母が、私の乗っている車両を母から聞いていて、前後のドアに分かれて待っていたらしいが、何せ私は12号車の車掌室で車掌さんと並んで座っていたのでそんなところから降りてくるはずがない。祖父母が降りてこないので心配し始めた頃、悠々と12号車のドアから降りていった。
昭和59年
4月11日より、「こだま」が順次12両編成に減車されていった。これも乗車率が悪いからと思いきや、それもあるが主な原因は国鉄の金不足。金が無く、新しい車両を作るのが追いつかないのである。車両の増備数を抑えて今までと同じだけの編成数を揃えるには、両数を減らすしかない。ということで、当時比較的空いていた「こだま」が減車の憂き目にあったのである。
減車の際は、旧2・3・6・7号車を外したものが多かったように記憶している。また全編成の減車が完了するまでは号車番号を1〜12号車ではなく、5〜16号車と称していた。グリーン車・指定席の位置、ビュフェの位置などを12両編成と16両編成であわせるためだと思われる。なお、売店車25形400番台は、7号車に組み込まれることが多かったが、減車後も営業していたかは定かではない。昭和61年には「こだま」の指定席が9号車、10号車のみになっているが、いつ自由席が拡大されたかは記憶にない。
7月25日より、2号車も禁煙車となり、「ひかり」は5号車までが自由席となった。
この年、私は「ちびっ子一人旅」で鎌倉に帰省した。新大阪まで母と妹がお見送り、東京駅へは祖父がお出迎え、車内ではコンパニオンのお姉さんが付いていてくれて安心である。前年に本当の一人旅をやっていて、図太く車掌室へ行っていた人間に、何を今更「ちびっ子一人旅」だとは思うが、それはそれなりにいい経験になった。おそらく「ひかり」に乗ったのは初めてだし、指定席も初めてだった。なにやら面白そうな冊子をもらえたのも良かった。しかし車内は歩き回らせてくれないし、山陽新幹線の「ちびっ子一人旅」の分の冊子も欲しいと言ったのに持っていないと言われたのは残念だった。当時の「ちびっ子一人旅」は「ひかり」の9号車の客席部分全部を使っていた。定員43名のこの客室は、「ちびっ子一人旅」にちょうど良いサイズだったに違いない。今の「ちびっ子一人旅」はこんなちょうど良い客室が無いがどうしているのであろうか?車中はビュフェとの間の自動ドアをドアの上のボタンで「手動」に切り替えて、一般のお客さんを驚かせて遊んでいた。
この年のもう一つの思い出と言えば、年末の「うなぎ弁当」事件であろう。当時私はスイミングに通っていた。そしてこの日うちの家族は、スイミングの進級テストの後、新横浜停車の「ひかり」と祖父の車で鎌倉へ帰省するという計画を立てていた。スイミングの進級テストは合格していたのだが、出発前、母に「どうだった?」と聞かれた時には答えなかった。母はやっぱり落ちたと思ったらしく、それ以上聞かなかった。そして新幹線が浜松あたりを走行中、突如として進級テストに合格したことを告げたのである。驚き喜ぶ母、そこへいいタイミングで「うなぎ弁当」の車販が来た。「お腹空いた。」と言うと、母はいつもならとても買ってくれない「うなぎ弁当」を買ってくれたのである。もちろん計画してのことだが、ここまでいいタイミングで車販が来るとは思わなかった。うなぎは美味かった。
「ひかり」(H編成、NH編成、N編成)
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「こだま」(S編成、SK編成)
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昭和60年
この年3月14日のダイヤ改正で、東海道新幹線は大きな転機を迎えた。これまでのダイヤは基本的に「こだま」重視、または「ひかり」「こだま」均等のダイヤだった。しかしこのダイヤ改正以降は一貫して「ひかり」重視の傾向となり、ダイヤ改正のたびに「こだま」は立場が低くなってゆく。その代わりか、今まで「ひかり」の停まらなかった駅にも一部の「ひかり」が停まるようになり、東海道新幹線で「ひかり」の停まらない駅は無くなった。熱海・三島も新たに「ひかり」が停車するようになった駅だが、これが結構時間帯が良く、鎌倉から大阪へ帰る際に、「踊り子」+「ひかり」の乗り継ぎをしたこともあった。うちの家族も今まで「ひかり」には縁がなかったが、このダイヤ改正以降は「ひかり」に乗ることが多くなり、逆に待避ばかりの「こだま」に乗るのが馬鹿らしくなった。
3月27日、100系の試作車が登場した。今まで東海道・山陽新幹線の営業車両は0系のみだった。この日、開業から22年目にして初めて0系以外の車両の登場を許したのである。
4月1日、指定席にも禁煙車が、グリーン車には禁煙席が付いた。下の編成図中、「ひかり」の12号車、「こだま」の8号車は一部の座席のみが禁煙席である。
6月24日、小倉〜博多にミニ新幹線の愛称で6両編成が登場した。小倉〜博多は1駅乗車がもっとも多い区間であったが、それまでダイヤは東京中心であったため、始発の下りは遅く、終電の上りは早かった。このため、小倉〜博多に区間列車を走らせたいものの、16両では輸送力過剰である。反対する中央を押し切り、九州内のみという条件で実現したのがこの6両編成である。予想通り好評で、6両編成は、翌年から山陽区間全区間で運転されることになる。16両の編成に比べると見劣りのする編成だが、この成功が0系の寿命を延ばしたのは間違いない。
7月より、東海道「こだま」の11号車・12号車が自由席となった。
またこの年、初めて改造車が出ているのも見逃せない。15形から25形へ、36形から26形への改造が発生している。
100系試作車(X編成)
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「ひかり」(H編成、NH編成、N編成)
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「こだま(東海道)」(S編成、SK編成)
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「こだま(山陽)」(H編成、NH編成、N編成)
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「こだま(九州)」(R編成)
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昭和61年
開業以来続いてきた0系の増備も、国鉄最後の年となるこの年で終わった。最後の増備は4月14日に新製された21−2030、26−2037、25−2053、22−2030の4両で、JR東海で最後まで活躍し、廃車回送された。代わりに100系量産車が登場し、この年の夏、12両編成で「こだま」に使われた。100系試作編成では0系1000番台以降のように小窓であったが、量産編成では0番台のように大窓となった。0系と逆の歴史をたどったのも興味深い。
国鉄最後の改正となる11月1日改正では、分割民営化後の車両の配分が行われ、それに基づきダイヤが組まれた。0系は「ひかり」編成JR東海53本、JR西日本32本とされ、「こだま」編成はJR東海38本、JR西日本5本とされた。JR西日本に継承予定の「こだま」編成は、山陽区間で「ひかり」として運転している。100系は全車両がJR東海とされ、この改正から山陽新幹線全区間を走ることになった0系6両編成は全編成JR西日本に継承された。それまで山陽区間の「こだま」は「ひかり」編成を使い、食堂車非営業で運転されてきたが、この改正から6両編成を使うことになった。
100系が「ひかり」として運転開始したのもこの改正と記憶している。確か「ひかり3号」と「ひかり28号」であった。冬に静岡へ行った帰り(つまり62年1月)、家族にねだって、乗っていた「こだま」を名古屋で降り、「ひかり3号」に乗り換えた記憶がある。結局新大阪に着くまで、乗ってきた「こだま」は追い抜かず、乗り換えただけ遅くなってしまったのだが、よく家族が私の趣味に付き合ってくれたものである。編成案内板が「グリーン車 11・12号車」から「グリーン車 9・10号車」に変わったときの感動は今でも覚えている。
翌年3月31日、日本国有鉄道は無くなり、新制JRが誕生した。東海道山陽新幹線はJR東海とJR西日本に分割された。
100系「ひかり」(X編成)
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100系「こだま(東海道)」(X編成・61年夏)
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「ひかり」(H編成、NH編成、N編成)
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「こだま(東海道)」(S編成、SK編成)
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「ひかり(山陽)」(SK編成)
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「こだま(山陽)」(R編成)
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*一部のR編成3号車には、37形が組み込まれた。